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Diary 2025/11/17
日記を始める。運用方法を考える。どう言葉にするか。実名で投稿する意義。友達とはなにか。このブログでやりたいこと。ランニングアプリを作った。奉仕の精神をエゴで汚さないために。

日記を始める。運用方法を考える。どう言葉にするか。実名で投稿する意義。友達とはなにか。このブログでやりたいこと。ランニングアプリを作った。奉仕の精神をエゴで汚さないために。

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今考えている運用の方法は
実はもともと紙のノートに日記を書いていたのだけど、あえてブログ上でやってみることにした。
2 点目については、もうすこし一般的な表現をすると、「言語化に時間を要する手段であるほど、無意識に感じていることを掬い上げやすい」ということだと思う。言語化に必要な時間とは、紙のノートであれば文字を書く時間で、PC 上の作業であればタイピングにかかる時間だ。言語化する手段は筆記、タイピングの他にも口頭での発話、口に出さずに脳内で独り言といった手段がある。文字にするのにかかる時間が短い順に並べれば
脳内で独り言 < 発話 < タイピング < 筆記
になると思う。あるアイデアが自分の中でどの程度言語化され整理されているかによってどの手段が適しているかが変わってくる。一文字書くのに時間がかかる手段ではその間に思考を整理する時間的な余裕が生まれる。だから、整理されていないアイデアほどのろまな言語化手段を用いるのがいい。言葉が湧き出てくるペースとそれを文字として固定する作業のペースをあわせる、という事もできる。
こんなふうにこの日記ではいくらでも話を脱線させていこうと思う。閑話休題すれば、タイピングで紡ぐブログ上の日記には、前々から何度か考えていたけれどまだちゃんとした記事にはできないくらいのアイデアを書き留めておくのにちょうどいい。
それから、なぜ実名でブログを運営しようと思ったかについても話しておきたい。
直接には最近読んだエッセイ1 の中で、匿名の文筆家がお金欲しさに駄文を量産したことで文学が悲惨なものになってしまった、と批判されていたからだ。文学に限らず巷に氾濫する情報にはいつも辟易としているが、その元凶に自分もなりうるというのが恐ろしかった。自分が文章を書くのはお金を稼ぐためではないが、それでもこれまでに匿名でいくつもの文章を投稿してきた。その匿名性に守られているという感覚が自分の発言を無責任なものに全くしなかったとどうしていえようか。
一応断っておけば、サイバースペースでの匿名の文筆活動のすべてを否定する気はない。岩内章太郎の『〈私〉を取り戻す哲学』2で述べられている「新しくデザインされた〈私〉によって、楽しく幸せに生きることができるなら、自己デザインは有用なツールとなる。この可能性を否定するつもりはない。」という主張には大いに同意できる。
ただ、同書で述べられているように「現実世界にいる〈私〉の有限性をいつまでも放っておくなら、〈私〉がどういう存在なのかが分からなくなる」。匿名ではいられない、これまでの自分の経歴と結びつけられて他者に判断される、というのは「現実世界にいる〈私〉の有限性」の一形態だろう。そうして自分がわからなくなるということは、主張に対して帰責するべき主体を見失うということでもある。
簡潔に言えば、少なくとも一つは実名で考えを主張する場をもつべきだと考えている、ということだ。
この年(26 歳)になってようやく友達とはなにか、のヒントを掴みかけている。友達とは、本音を話せる人のことだと思う。ただ、どこまでを本音とするかはまだ答えが出ていない。例えば遊びに誘われたとして、乗り気でないときにはちゃんとそう言えるのが友達だ。でも考えていることなら何でも話していいかというとそうではないはずだ。過度にプライベートなことやただ相手を傷つけるようなことを言うのは「腹を割った」友達との交流とは言えないだろう。だからまだヒントを掴みかけている段階だ。
この問を考えるうえで有用だと思うツールが、千葉雅也の『勉強の哲学』3に書かれている。この本は難しい話をキャッチーな言葉でわかりやすく説明してくれる良書だが、そこで述べられている考えも実用的で興味深い。私達がいるコミュニティには常に固有のノリというものがある。こういうときはこう言う・する、といった暗黙の了解のことだ。髪を切った人がいたなら、「似合ってるね」というなど。この環境のノリを転覆する方法がボケ(ユーモア)とツッコミ(アイロニー)だ。ツッコミは環境のノリを否定する。先の例で言えば「似合ってない」ということだ。ボケはノリを否定せずに、されどそのノリとは違う外部のノリを持ち込む。例えば「散髪って衣替えみたいなものだよね」とか。
このノリ・ボケ・ツッコミという構成要素で会話を捉えるならば、どんな会話が居心地がいいだろうか。経験から言わせてもらえれば、ベースに相手に共感するというノリ 6 割に、3 割のボケと 1 割のツッコミがカジュアルな会話ではちょうどいいと思う。数字は自分のただの感覚だし人によって求める割合は変わるだろうが、大事なのは少量でもボケやツッコミが必要だということだ。ノリ 10 割でただ漫然と共感し合うという空間は自分には味気なく感じられる。自分が思っても見なかったことをユーモアという形で表現して驚かせてほしいし、言いたいことはノリを転覆してでも言うアイロニーも必要だ。
以上の用語を用いて再度いうならば、私が思う友達とは、アイロニーやユーモアを交えて話し合える人だと思う。コミュニティの規範に挑むという緊張感とそれが受け入れられたときの高揚感。そして、アイロニーが多く語られるであろうこの日記を誰かに見せるということは、友達を作るその第一歩になるのかもしれない。
Smart Watch のヘルスデータ(睡眠記録や心拍数など)を日記に自動で埋め込む
自分の健康状態を気に掛ける良い仕組みだと思う。でも今持っている睡眠 Tracker は壊れてしまったので新しいのを買わなくては、、
自分のプロフィール記事を投稿する
Jog Partner App の紹介記事を投稿する(後述)
雑文(日記)に丁寧に書いた記事が埋もれないようにサイトの構成を改善する
英語でも日記を書いてみる
音声入力も試してみる
友人・知人の匿名データベース
今後日記を書いていくなら頻繁に話題に上がる人もいるはずだ。もちろんその人達は匿名にするわけだが、自分とどういう関係か毎回説明するのは面倒だ。それなら例えば[A さん]という人物名からその説明(e.g., 研究室の先輩。サッカーが上手い)が見れるようなデータベースがあれば楽かもしれない。
よくお世話になっているランニングコミュニティの Jog Partner で、コミュニティ向けの Web アプリ(Jog Partner App)を作っている。もともと今年 10 月末の横浜マラソンを一緒に走る人たちがランニングの記録を共有してモチベーションを高めるためのアプリだったが、横浜マラソンが終わったあとも使いたいという声を複数もらったので今月中にバージョン 2 をリリースする予定だ。
昨日はその開発がようやく一区切りついて、数名にプレビュー版の URL を送って試用を開始してもらった。ここではアプリそのものよりも、アプリをここまで開発してきた感じたこと、考えたことを書きたい。
まず、アプリのクオリティに関してはかなり満足している。正直自分がここまでちゃんとしたアプリを開発できるとは思っていなかった。そうなるとこのアプリに愛着が出てきて、色んな人に使い続けてほしいと思うのは自然なことだと思うが、そもそもどうしてアプリを作ったのかということを一度思い出しておきたい。
始まりは今年の 5 月で、Jog Partner の代表の人から、モチベーション維持のためにランニングの記録を共有する仕組みを一緒に考えてほしい、と相談をもらったところだ。当初はスプレッドシートで管理することを考えていたが、アプリを作ってみたのでこれを使うのはどうかと私から提案して承諾してもらった。どうしてこんな提案をしたかというと、Firebase Studio という AI 統合型エディターでアプリの雛形を作ってみたら想像以上にいいものができたからだ。「みてみて、これすごくない?」という興奮が始まりにあった。自分としてはアプリが使われるかどうかにはあまり関心がなかった。
感動の共有とでもいうべき当初の目的が果たされてからもアプリの開発を続けてきたのは、(ユーザーがいることへの責任感から、というのももちろんあったが)やっぱり開発するという過程がそもそも楽しいからだ。開発には AI によるコード生成を最大限使っていると言っても、各技術についての知識やアルゴリズミックに考える思考力は常に要求される。それはこれまで自分が培ってきた技術力が形になっていく快感でもあったし、ランニングアプリだけでなく自分が日頃使うサービスの多くも時間さえあればきっと自分一人で作ることができるのだという感覚、不遜ではありつつも自分はこの世界で自立できるのだという強い自己肯定の感覚でもあった。
もっといえば、アプリの仕様とコミュニティの形が相互作用するダイナミズムを間近で見られたのもとてもおもしろかった。 例えば返信をフィードに表示するような仕様にすれば、返信が相手に気づかれやすくなるので交流のインセンティブになるし、活発なコミュニティであるという演出にもつながる。月間走行距離を表示するよりも、月の目標走行距離の達成率を表示するほうが、個々人の目標に向かってマイペースに頑張ろうという雰囲気の醸成につながるかもしれない。これも広い意味での開発の過程と言えるだろう。
要するに、自分の目的は開発という体験であってアプリはその副産物に過ぎない。
ところが今、自分はこのアプリが誰かに使われるということに執着を覚え始めている。先に述べたアプリへの愛着だ。その原点には、人の役に立てると嬉しい、という原始的な感情があり、それを持つこと自体は大切なことだ。アプリを使ってくれている人から感謝を伝えられるたびに嬉しくなるのは、決して間違っていることではない。
ただ、同じ人をより幸せにする手段が別にあればどうか。それによって他人が幸せになればそれでいいはずだが、自分が人を幸せにする機会は逃すことになる。私はその状況で自然に人の幸せを願える人になりたい。
この世には多くのランニングアプリがある。私が作ったアプリをユーザーが使う必要はない。ユーザーは別のアプリを使うことでより密な交流や快適なランニングを享受することができるのかもしれない。アプリの出来に満足していると入ったが、他のアプリに比べて優れているというつもりはない。むしろ機能はまだまだ限定的だ。現状 20 人ほどのメンバーが使ってくれているのは、みんながこのアプリを使っているというネットワーク効果によるものが大きいと思う。(とはいえアプリの価値がないというほど卑屈になるつもりはないし、ここまでコミュニティの活発な交流に少しでも貢献はできたはずだという自負もある。)
私が自戒したいのは、アプリ開発はそもそも自分のためにしたことであって、その成果物への執着に他人を巻き込むべきではないということと、他者への奉仕の精神が歪んだ独占欲に塗りつぶされないように常に注意しなければならないということだ。
今はまだ実装されていないが、Strava というランニングアプリとの連携機能の追加を検討している。すでにコミュニティ内の数名が Strava を利用しており、彼らが Jog Partner App と Strava を併用するには同じランニングの記録を二度投稿する必要がある。囲い込むなら連携機能はない方がいいのかもしれないが、こういう状況でこそユーザーの利便性を優先することを意識しよう。